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 戦前のことである。戦後間もなくの頃に亡くなられた児島喜久雄先生が、何かの折に私に言った。「どうも近頃の絵は、ヨーロッパでも妙に女臭くなった。ルノアールでもボナールでも、マティスでも女臭い一」この言葉は、その頃、私が好きで、そういう 画家たち-ルノアールだのボナールだのの評論などを書いていたことについての「頂門の一針」のような意味で言われたのかもしれなかった。それで私は先生に訊ねた。「先生が男臭いと思われるのは、具体的に言うと、どんな画家ですか?」児島先生は即座に答えた。「旧いところではジォットーだの近代ではセザンヌだのだな」私も即座に先生の謂わんとするところの意味を了解した。
 もちろん、この言葉は、男臭い絵だけがよくて、女臭い絵のすべてが感服出来ないという意味を含んでいるわけではあるまい。が、そこには少くとも児島喜久雄という一人の美術史家の美術表現の根源に対する一種の「郷愁」のような響きのあることを私は感じないわけにはいかなかった。その児島喜久雄が生きていて、現今の画壇の状況を見ているとすると、どんな述懐をするだろうか、と私はよく想像することがある。現在の日本の画壇は、日本画の領域でも油絵の分野でも、特に中堅以後の世代の多くの画家たちの作風が清々として「女臭い」方向に流れていると感じられないだろうか。粉飾された抒情の表れ方が、いかにも女性的な作品が多いのである。
 こういう現画壇の状況の背景の前に、福王寺法林の作品を置いてみると、この画家の作風がいかにも男っぽく見える。制作の根本にある作情が珍しく男性的なものに感じられる。
 ここで、私事に亙って恐縮だが、福王寺法林と私との個人的な関係をいささか述べておく方が、読者の納得を得られるかもしれない。この画家と私は同郷の生れである。東北の米沢に生れている。一世代違うが、私もこの画家も17歳ごろまで米沢で育っている。

私が福王寺法林に初めて会ったのは、終戦後間もなくの頃、彼が中国の戦線から復員してきて米沢に戻り、再び絵を描き出した時期であった。それまで私は福王寺法林という名前も知らなかった。私は東京の家を戦火で焼け出され、山形県の農家に間借りして過していた。ある日、米沢の姉の家を訪れると、姉の言うには、福王寺さんという大変真面目な画家がいて絵を見てほしいと言っ ているから、一度訪ねてやってくれないか、と言って、自分でこの画家のところへ私を連れていった。福王寺法林は川の傍の家に両親と共に住んでいて、二階の部屋で大きな山の絵を描いていた。新婚間もないらしい奥さんが、まめまめしく立ち働いていた。その時、私が初めて見たこの画家の絵についての印象は、おおらかでへナヘナしない絵だが、どうにもプッキラボウで、これではどこの展覧会にも通りそうもないような気がした。この時、私は画家にどんなことを話したか、いま記憶にない。その帰り途、姉は、この画家のお母さんが、パーマをかける費用にといって福王寺の細君に小遣いをやると、細君はそれを全部福王寺法林の絵の具代に廻すそうだ、そして味噌と油揚げだけの食事で何日も過している、といって涙ぐんだ。貧乏のことだったら私だって同じようなものですよ、と私は姉に言おうとしたが口を噤んだ。
 福王寺法林は大正9年の生れ、本名は福王寺雄一という。八人兄姉の一人だけの男の子で、長姉一人に他の六人は妹である。法林の名が画壇に出かかった頃のことだが、福王寺法林というのはいかにも坊さん臭い、本名の雄一の方が画名としてもよほどいいではないか、と私がいうと、彼は法林という名は、法泉寺の和尚さんが私のためにつけてくれた名です。変えるわけにはいきません、ときっぱりと言った。
法泉寺というのは、上杉藩以来の由緒 ある寺である。福王寺家は昔は米沢の上杉藩の槍術師範の家柄であった。更にその昔は、越後の新潟に近い堀ノ内というところにあった下倉城の城主だったそうである。そこに今でも小高い山に城跡の石組みなどが遣っているということだが、上杉謙信の時に、福王寺家は上杉家と養子縁組で一緒になり、その結果、会津から米沢へと上杉藩の移封と共に移ってきたという話だ。この話を私の姉から聞いた。だから、福王寺法林の身体には脈々たる田舎武士の血が流れているということだろう。彼は年少の時、剣道を学び、居合抜きの名手である。いまでも制作がうまくいかなくなったりすると、父親から受けついだ刀で居合抜きを試みると気がさっぱりするという。福王寺法林は若年の頃、空手も修行した。二枚ぐらいの煉瓦など片手で割るのは何でもない、という話を聞いたことがある。この画家の年少の頃のさまざまな挿話を私は米沢で聞いているが、ここで私は武者修行者の伝記を書いているわけではないから、いい加減にして止めなければなるまい。ただ一つ、彼は子供の時から無類の負け嫌いの少年であったという挿話だけを記しておこう。夏になると山国の少年は河原で泳ぐ。その河原で、どこの少年たちでもやっているような遊びがある。焚火をした後の燃えさしの炭火を掌にのせて、我慢競べのような遊びをする時があると、福王寺少年は掌が焼けただれても他の少年が炭火を放り出すまでは掌にのせていたという。
 こういう極端にも思われるような負け嫌いの根性は、単にこの人との生れつきの気性とばかりは言えないような事情からもきているようである。彼は小学生の一年の時、父親と猟に行き、銃の暴発によって左の眼の全視力を失った。以来、左眼は義眼である。この事件は、その後の福王寺少年の行路を全く変えた。前記の負け嫌いの根性もこの事晴によって一層強いものになったようである。
 この事件のあった翌年の小学校二年の時から、福王寺少年は、米沢の街はずれに隠棲している狩野派の老画家上村廣成から絵を学ぶことになる。福王寺少年は絵だけが好きであった。放課後はほとんど毎日のように上村廣成の許に通って絵の手ほどきをうけた。その時、上村廣成は八十歳近い老齢であったが、福王寺少年が唯一人の弟子であった。上村廣成は孤独な地方画家の一人として世を終えた人であって、この地方の寺院の襖絵などを描いている。謡をうたうことを愛し、福王寺少年が絵の稽古にくると、まず少年は師の謡を拝聴しなければならなかった。福王寺少年はその時間を我慢しなければ、絵の稽古に入って貰えない。福王寺法林は当時のことを回想して、その謡を拝聴している時間がいかにながかったか、それを我慢しているのがいかにつらかったかを私に語ったことがある。私はこの老画家が田舎の街はずれの茅屋で、唯一の弟子である少年を相手に大真面目に悠々と謡をうたっている姿を想像して微笑を禁じ得ない。福王寺少年が上村廣成に就いたのは、小学校の六年生の時までで、六年生の時、上村廣成は亡くなった。後年になって、福王寺法林は少年の時学んだ狩野派の画風がいまでも自分の絵のどこかに遣っているような気がすると私に語ったことがある。彼が横山大観の絵を敬愛しているのも故なしとしない。大観は狩野派以後、近年における唯一といっていい北画系の画家であった。
 前記のように、画家福王寺法林は隻眼である。古来、東洋でも 西洋でも、画家としての出発の当初から片眼の画家というのがあったであろうか。私は寡聞にしてそれを識らない。自分たちの日常経験からも、片一方の眼だけでははっきりした距離感が分らないことは実感している。心理学などでも、距離感とか視野の拡がりということは両眼の存在によって成立している、という説がある。そういう日常経験や心理学の学説を覆すような事実に、われわれは画家福王寺法林の場合に当面しているのである。

この画家が画家として立つ以前の少年の時期から隻眼であったということを、ほとんどの人は今でも知らないのではないだろうか。片一方の眼で絵が描けるものではない、それも距離感の明確に表現され、画面に示されている視野の拡がりも普通一般の画家のそれよりも優っ
ているし、微妙な調子の統一にも鋭敏である、そういう画家が隻眼の人ということは信じ難い。そういう具合に見ている人は世間に普通なのではないか。仮りに私が個人的に福王寺法林という画家を実際に知らないで、その作品だけしか識っていないとすれば、この作者が隻眼の画家だなどとは夢にも思うまい。それに、福王寺法林その人は自分の肉体的欠陥を人前に示すことを極度に嫌い、ましてそのことについて愚痴めいた片言といえども吐露したことはない。左眼に入れてある義眼は、あるいは彼に接する人々に、少し片一方の眼が悪いのかな、といった印象を与えるかも知れないけれど、その一眼が全然視力を失っているということは、恐らく想像もしないのではないか。
この小稿の中で、私は福王寺法林が隻眼の画家だという点に多少でも深入りして述べることを最初は止めようと思っていた。少くとも書くことを躊躇していた。が、書いているうちに、この優れた画家が、隻眼であろうと双眼であろうと、そんなことは問題 ではない。ただその絵がよいか悪いかだけが問題なのであって、わたしはここで福王寺法林が隻眼の画家であるということで、その作品を買いかぶって見て貰いたくないし、割引きし見て貰いたくもない。そんなことは無関係だ。この画家がもしそういうことで世間の同情を買うような場合があったとしたら、サッサと画家など廃業してしまうだろうと思う。福王寺法林はそんなケチな根性の画家ではない。
私は、ただ隻眼でも人間には福王寺法林のような絵が描ける!という事実に驚嘆しているのだ。

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福王寺法林は16歳の時まで米沢にいた。そして16歳の時、本式に画家たらんことを志して上京する。その間のことをこの画家は余り語りたがらない。大体、福王寺法林は自分のことについて自分から語ろうとしない人である。いつか、何かの折に、上京して苦学をしました、とぽつりと呟いたことがある。この画家が、苦学というからには、よほどの辛酸を嘗めたのであろう。

 22歳の時に、召集されて中国戦線に配される。それから四年半、中支、南支と転々と戦線を移動し、最後には垂慶の近くの桂林で終戦を迎える。山砲の部隊であった。ある時、私が彼に、片一方の眼が駄目なのに、よく兵隊に召集されたものだな、と不審がると、いや私は片一方の眼でも実弾射撃の成績などはよかったです、と答えた。万年上等兵だったと苦笑しながら私に語った。
 戦争に召集されて郷家に戻った福王寺法林は、あり金全部をはたいて絵の具を買い、それを縁の下の土の中に埋めて中国戦線に出かけた。戦争が長びくにつれ、文字通りの悪戦苦闘が続くことになる。部隊の移動の長い道中で、泥濘の中で彼の軍靴は破れ、
足の骨まで露出するほどになった。それでも歩かなければならない。部隊からの落伍は死を意味している。そういう時に、福王寺上等兵の目蓋の裏に浮んでくるのは、郷家の縁の下の土の中に埋めてきた絵の具だったという。あの絵の具を使わないで死んでたまるか、と自分で自分を励まし、必死で歩き続けた、とある時、私に語った。画家としての執念が、彼を死から救ったのである。
 同様のことが終戦直後にも起った。このことの方が前記のことより更に信じられないような事件である。桂林附近で終戦になると、部隊は四分五裂し、福王寺上等兵は同じ隊の兵隊8名と一緒に香港まで半年かかって脱出した。桂林から香港まで何千キロあるのか、気の遠くなるような距離である。それを昼は人目につかぬように隠れ、夜中に歩いて、その長道中を突破し、香港の印度部隊に投降したというのである。普通の体力、気力で出来ることではない。もちろん生命への執着力は強かったから出来たことには違いないが、福王寺法林の場合は、其の裏に画家としての執念の逞しさを感じさせないではおかない。かれは中国戦線に4年半いた。私が米沢でこの画家に初めて会ったのは、それから間もなくの時期であった。そして彼の本当の画家らしい画家としての出発はそれ以後といっていいかもしれない。

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 終戦後の混乱の時期に、私は山形在の農村の仮寓を引きはらって、東京荻窪の畠の中の文字通りの堀立小屋のような小さな家に越してきた。福王寺法林も現在の牟礼の家のある同じ場所に、私のところと似たりよったりの小さな家に移ってきた。

特殊な人を除いては誰でも貧乏は当り前の時期だったけれど、それにしてもこの画家の貧窮は相当なものだったようで、その中でよく頑張っていると思って私は感服した。朝は三時に起き、朝飯前にひと仕事を済すのだといっていた。院展出品の大きな絵を描くためには、その普通の家屋は天井が低過ぎた。彼は材木屋や瓦屋などから材料を買ってきて、自分の手で、その天井や屋根を改造し、大きな絵を描けるような造作をした。その家でこの画家は「朝」という絵を描き、その作品が彼が院展で最初に受賞したものではなかったかと思う。夜明けの明るい太陽の光が貧しい台所のガラス戸に射し始めている情景で、生活実感のある住い絵だったと憶えている。貧しい生活を描いていながら、明るい表現が佳かった。この画家には画面の調子の処理に非常に敏感なものがあって、どんな厳しい題材を描いても無闇にどぎつい感銘を与えない。この調子についての敏感さは、私が福王寺法林の絵について、初期から強く感じている事柄であって、この画家の優れた特色の一つである。同じ頃の作品に、小品だけれど「暮夕方」という絵があって、これも、この画家のすぐ傍らの、あばら屋を描いたもので、夕空の明るい黄色や手前の物干しの柱に当っている夕方の光がよく効いていて、調子の敏感さが出ている作品であった。大体、福王寺法林の絵は、よしんば貧しい生活実感をとり入れた作品であろうと、少しもジメジメした陰湿な感じがしない。そういうところも、貧乏を意にしないわけではあるまいが、そんなものをはねのけてしまう生活力の還しさが裏打ちになっているからだと思う。
 それから少し後になって、彼は、「麦」(1958年)という一面の青い麦畠の絵を描いている。この頃から、福王寺法林が発起したように記憶しているが、私のところに月に一回集って、絵の研究会のようなことをすることになった。岩橋英遠、福王寺法林の両氏と今はそれぞれ故人となった荒井勝利、酒井亜人、馬場不二の諸氏が集った。習作や下絵などを持ちよって、腹蔵なく互に話し合う集りであった。福王寺法林は、この「麦」の制作の時に、この研究会に無数ともいっていいほどの麦のデッサンを持ってきて、私たちを内心驚かせた。それは百枚に近い、それも一枚一枚が丹念な麦の穂や茎や葉の写生であった。
。本絵として出来上った「麦」の絵を見ると、そういう無数の写生の効果は、どこに潜んでいるか、一見解らないようでもあったが、そのことによって福王寺法林の頭の中や胸の内には伸びつつある時期の麦というもののフォルムや色や、すべてが深く畳み込まれてしまうのであろう。そういう具合に、本絵の制作に着手する前に無数とも思える素描によって準備するのは、この画家のいつものやり方であって、普通の画家なら十枚の素描をするところを、彼はその十倍の百枚をするといった労を厭わないのである。むしろ、その努力を愉しんでいるような風さえ見える。努力家であると同時に真から絵を描くことが好きなのである。
 やはり恰度その頃、院の試作展(1958年)に「落葉」と題して、構図の上では何の変哲もない、ただ地面一面に秋の落葉が散り敷いている絵を出品し、その後だったと思うが、「落葉」だけの題材による数点の作品で個展を開いたことがあった。私はこの「落葉」のシリーズもこの画家の作品として好きなものの一つである。この絵は、これといって、いわば見せ場のない平坦な構図で、むずかしいと言えばむずかしい絵である。少々抽象的な作風にも近い画面である。彼は、この画面のうちに、微妙な色彩の変化を持たせ、形の変化とリズムを整えて作品を仕上げている。何よりもこの作品について私の感銘を深くさせたものは、この絵に籠っている画家のものを見つめている優しい心情であり、柔かに静かな調子で画面をまとめている画の巧さであった。福王寺法林という画家はもともと人一倍心優しい人である。そのことを私は長いつきあいのうちに強く感じている。そういう優しさは人間に対してばかりではない。植物に対しても動物に対してもこの画家には美しい優しさがある。自宅には多くの植木鉢なども置いてあるが、それらに対する手入れの仕方もまるで専門家のような心配りをしているようである。鳥獣についての愛情も並々ではない。そういうこの人の愛情は、人間よりも植物や鳥獣の方が却って本能的に直截に感じとるのかもしれない。この画家の手にかかると、枯れかかった植物は生きかえり、元気を失った鳥獣は生々してくる。そういうことも私は実際に目のあたりにしているから格別大袈裟な感じを伴わないで言えるのである。この種の優しさの表わし方については、この画家はひどく羞しがりで、その点、いわば男性的な優しさの一つのタイプかもしれない。そういう優しさは、この「落葉」の絵にばかりでなく、ほとんどの絵にいろいろなかたちで出ているわけだけれど、画面全体の壮快とも豪胆ともいうべき 表情に包みこまれて余り表面に目立たない。しかし、私は福王寺法林のそういうべとつかない男性的な抒情を買っている。
 1960年の院展に出した「北の海」によって福王寺法林は日本美術院の同人に挙げられた。前面に逞しい松の大樹の幹を配し、その枝葉の隙間からかい間見る怒濤の激しい北の海は、いかにも福王寺法林好みの題材である。この絵には怒号する風濤の響きがある。いうまでもないことだが、豪胆とか壮大ということは粗雑ということとは全く異質の事柄である。この画家は作情は壮大ではあっても決して粗雑に流れてはいない。「北の海」もよく配慮された構図で、その画面いっぱいに溢れるような構図をするのが、いつもの福王寺法林の常套のやり方であって、その構図だけをとってみても、多くの画家の酒落た絵と違うところだと私は思っている。  その後、石仏を描いた大作に国際展(1963年)に出したものと、その少し遅れた時期に再び同じような石仏の大作を院展に出品したものとがある。これら石仏は福島県の山の奥地の巌壁に昔刻まれたもので、私は実物を見ていない。この画家はその山奥に入ってこの石仏を無数に写生し、制作に移った。その間、幾度もその山奥に出かけたらしい。人里離れた山奥の写生は随分辛苦の多い仕事だろうのに、彼は一口もそんな苦労について語ったことはない。大体、彫刻を題材とした絵は、彫刻と違った絵画的表現がなければ面白いものにならぬことは自明である。福王寺法林は、この厄介な題材に挑戦して見事な絵画的効果を示した。この題材と取り組んで絵にするには、よほどの力量のある画家でなければうまくいかないと思われるのだけれど、福王寺法林は、画面の無類の調子の敏感と、明暗に籠る複雑な岩壁の色調とによって佳作を生んでいる。この絵などは、この画家の絵の巧さということを遺憾なく示したものだと思うが、彼の絵はそういった自分の画技に溺れて、それを表面にひけらかすようなところは決してないから、余りその「巧い」ということは世間の問題にならない。巧さを表面に露出しないことはこの画家の得難い特質だとさえ私は感じている。
 次々に近作を例に挙げて、この画家の特質を論じることは私にとって興味ある事柄でもあるが、読者の煩慮を避けて簡述してこの小文を終ろうと思う。
 1964年の「島灯」とか、1970年の「万博夜景」とかも大きな鳥瞰を描いて、この画家でなければやれない困難な仕事であったが、近年のヒマラヤ連峰の数年に亙る連作こそは、この画家にして初めて可能な作品である。福王寺法林は眼前のものを、風景でも何でも、実際に自分の眼で確かめ、皮膚で感じたものでなければ描こうとしない。だから地上数千メートルの高さに文字通り命がけでヘリコプターで飛び、その地に降り立って写生を繰り返し、その絵を制作するといった仕事をする。このような命がけでの制作をこれまで誰がやったことがあるだろうか。世界でも初めての画業であろう。ただ、私はこの画家のそういう制作についての大胆不敵な冒険が偉いというのではない。その結果によって生み出された作品がやはり前人未踏のものであり、優れた絵画として結実していることを認めたいのである。例えば、最近の院展に出品された「ヒマラヤの朝」(1977年)の遠くまで連なって鋭い刃物のように聳え立つヒマラヤの嶺々を仰ぐ感じばかりでなく、覗けばゾッと するような深い谷底を思わせる下方への空間把握も実現している福王寺法林のヒマラヤの絵は、まさに絵画表現として前人未踏の境地のものだと私は思うのである。

 (元・京都国立近代美術館館長)
 (『三彩』増刊365号 昭52・12・10より転載)