身の回りからモチーフを

富山 今度大規模な展覧会を催されるそうで、おめでとうございます。本格的な回顧展というのは初めてですか。
法林 はい、初めてです。
富山 出品リストを見ますと1950年の「朴青葉」がいちばん初期の作品ですから、40年の画業が一望のもとに見られるわけですね。
法林 16歳で東京へ出て日本画の勉強を始めまして、今はもう71歳ですから、画業としては55年になるわけです。
一彦 父が東京に出て来たのが16歳になる少し前、昭和12年の春、まだ満15歳の時です。父の父、祖父は当時は、山形県米沢市で果樹園のようなものを営んでおりましたから、今とは時代もかなり違いますし、父が絵描きになるのを反対してたいへんだったようです。
法林 小学校の頃から狩野派の上村廣成先生について日本画を習い始めて、学校の帰りなどよくスケッチをしていました。とにかく絵を描くことが好きだった。当時は世間も道楽としか見てくれなかったし……。親に反対されていたので、飛び出してきたわけです。
富山 やはり早い頃の作品で「朝」という作品がありますね。台所の風景を描いたもので。
法林 はい、あの頃はその日暮らしのようなもので、家の周囲とか目の前のものを描いていました。あの台所は、私と家内で作った台所です。
一彦 「朝」は1955年、僕が生まれた年の作品です。台所に手押しポンプがあって、父や母は物を大事にしますから僕が中学生ぐらいまでありました。それをいつも父や母や兄が押していたのをよく覚えています。当時の親子4人の生活がひとコマひとコマ思い出されます。
富山 院展で奨励賞を初めてとられた作品ですね。生活実感が滲み出ていると、好評でしたが。
法林 あの台所の窓の外の空の色は、バラ色なんですね。あの色を出すのに、下に反対色を何度もぬって苦心しました。あれは希望をたくした色なんです。出発点の。
富山 つつましく、素朴だけれど温かい作品ですね。
一彦 その牟礼の家の北側にあった麦畑を描いた「麦」という作品、東側にあった人家を描いた「暮夕方」、あの頃は、ほとんど家の周囲だけで取材をしていたようです。この「麦」あたりから、よくスケッチに一緒に連れていかれました。



富山 先生でかわったモティーフというと、落ち葉が有名ですよね。落ち葉の作品ではそれだけで展覧会をなさったことがありました。ずいぶん前ですが。
法林 はい。2~3年落ち葉だけを描いていたことがあります。兼素堂でその落葉の個展をしていただきました。当時は何を描くかということよりも、どう描くかということばかりを考えていました。今度の展覧会にも出品したかったのですが見つかりませんでした。
富山 そのためのデッサンがすごかった、徹底的にやられたと、今泉篤男先生がどこかに書いていたのを覚えています。
法林 今泉先生にはいつも叱られるばかりでしたけれども、落ち葉のシリーズでは初めてはめられましたね。濡れた落ち葉とか霜にあたった落ち葉とか、いろいろ一生懸命描きました。楽しかったですね。落ち葉の作品なんか買ってくれる人はいないと思っていましたが、展覧会をやりましたら、欲しいという人がたくさんいましてね。全然売れないと思っていたのですが。あの頃から、なんとか生活できるようになりました。
富山 あの展覧会は、鮮やかに覚えています。私のおります美術館には「島灯」という先生の作品がありますが、「島灯」にせよ同じ頃の日光東照宮を描いた作品にせよ、先生の絵は上からと下からの両方から見て取材したものを、うまく一つの作品にまとめられるのが特色ですね。
法林 はい、日光東照宮も実際は木々で隠れて見えない所なのですが、見えるようにいろいろ工夫して、考えて。島灯の作品も、まず、いったん飛行機で島を上からざっと見るのです。そしてあとは、1ヵ月ぐらいかけて島全体を歩き回って、スケッチを何枚もするわけです。それらを合わせて、上から見たような視点で描いているんです。そういう描き方は楽しいものです。
富山 先生はデッサンを、他の画家の何倍もなされるとうかがっています。今度、そういうものも出るんでしょうね。

法林 ええ。そういうものはちゃんとやりますね。
富山 それにしても先生の作品は、大きいですね。
法林 はい。院展に出したものは、みな幅が4mくらいあります。
「山腹の石仏」という六曲一双屏風の作品ですが、- これは六曲半双を上下にジョイントしたものを院展に出品した時は、床から天井までとどいたもので、こんなに大きいのは初めてだって、大きさで話題になってしまいました(笑)。
富山 東京都美術館のまだ旧館時代でしょ。並んだんですか。
法林 はい。
一彦 大きいものが好きな父のアトリエも大きいですね。天井が5mぐらいありますから(笑)。
法林 大きな屏風では、臥龍梅を描いた作品もあります。龍のかたちをしたような枝っぶりの。鹿児島の臥龍梅や松島の瑞巌寺の臥龍梅などあちこち取材しましたが、なかなか絵にするのは難しいので、いろいろつないで、自分なりの臥龍梅にしたのです。あれは金屏風に描きました。


小さい頃からの憧れの地


富山 ヒマラヤには1974年に行き始められたんですよね。
法林 はい。
富山 だからもう17年ですね。その間9回行かれている。
一彦 最近は1989年の1月に行きました。
富山 一彦さんもヒマラヤ取材には同行されてらっしゃるんでしょ?
一彦 はい、全て同行しました。最初の1974年のネパール、ヒマラヤ取材は父は53歳で、僕はまだ19歳でしたしネパールの風俗やヒマラヤの大きさにカルチャーショックを受けました。
富山 ああそう。19歳でしたか。
法林 前は子供が心配でね。ここは危ないとかいちいち子供を心配していたけれども、今は親父ここは危ないから気をつけなさいって、反対に心配かけてます(笑)。子供も大きくなると、役に立ちますなあ(笑)。
富山 ヒマラヤ行きの最初のきっかけは何だったんですか。
法林 小さい時からいちばん高い山があると知っていて、大きくなったら必ず描きたいと思っていたんです。もう10年早く1960年代からヒマラヤに行っていたらなと思いますが、前は行きたくとも生活自体に余裕がなかったですから。その点は残念ですね。

富山 ヒマラヤと一口に言うけれど、非常に細長くて、先生のいらっしゃるのはネパールヒマラヤというらしいですね。
法林 そうです。ブータンシッキム、パキスタンとかいろいろありますが、ネパールがいちばんいいところではないでしょうか。チベット側からはエベレストのことをチョモランマと、同じ山をそう呼ぶんですが、ネパールからですと中国領なんで許可が出ないから飛べない。エベレストの手前側だけで、後ろを回ることはできませんが、ピラタスという単発機ですと、高度を上げて、ボーダーラインぎりぎりで飛ぶこともできます。
一彦 エベレスト周辺の山々のクーンブという地域に、高い山が集まっています。マーカールウとかローツェ、ヌプツェプモリー……。アマダブラムとか、8000m峰が5つぐらいあります。
又、これらの山の間の氷河もすごい。ゴジュバ氷河とか、イムジャ氷河ですね。
富山 普段はどこに泊まっているんですか。
一彦 首都のカトマンズです。
富山 標高は?
一彦 1350mくらいです。
富山 そこから一気に7000mくらいまで上がってしまうんですか。
一彦 ピラタスポーターというスイス製の単発機だと上がれます。ルクラという飛行場が4000mの所にあって、そこに一度ランディ
ングします。ヘリですと6000mくらいまでで、これは直径20mの平らな面があればランディングは自由です。
法林 高度を上げるには燃料を下ろして、飛ぶための燃料だけを用意して、機体を軽くして上がるわけです。
富山 ああなるほど軽くしてね。けれどそんな高度差を繰り返すのは、たまったもんじゃないですね。
一彦 そうですね。僕達は何十時間もその高さに居ませんから、ピラタスポーターですとカトマンズを出てからノンストップ、直線でだいたい4時間のフライトで、東のエベレストから西のアンナプルナダウラギリぐらいまで見て帰ってこれます。
富山 ヘリコプターでも行かれるんでしょ。ヘリで上がって中からスケッチして、いい所に着地してもらうわけですよね。でも、降りるのは危険じゃないのですか。どのくらいの高度に降りるんでしょうか。
一彦 ゴジュバ氷河のゴーキョのあたりで4700mくらい、ここには人も住んでいます。アマダブラムとバルンツェの間のパンチポカリあたりでだいたい5500mぐらいでしょうか。1979年以降は、事故があったようで、救助は別として4000m以下に制限されました。
法林 そこまで行かないと、7~8000mの山並みが見えません。遠く離れれば見えますが、山の中に入ってしまうと峰なんかは見えない。でも、降りてもらってからも、けっこう歩かなければなりません。
一彦 先ほどお話ししたピラタス(単発機)で7~8000mまで上がると、全体の印象がかなりよくわかります。単発機だとドアを開けて見ることもあります。片側の右側のドアを開けロックし、シートベルトを2本してさらに縄をかける。そうすると足の下にずーっと見えますから、それを父がスケッチするわけです。
富山 へえーっ、怖くないんですか。
法林 ヒマラヤに行く時は軍隊にいた時のように、いつ命をとられてもやむを得ないという気持ちでいますから、恐いという感じはない。でも最近70歳になってやっと恐いものだなあと、かえって日本に居る時に感じます。山が大きいから、飛行機なんて木の葉っぱ一枚くらいなものですから。
富山 だいたい1月にいらっしゃるんでしょ。
法林 はい。いちばん天気が安定しているんです。6月になると入梅で、いつも曇っていますから。冬がいいですね。
富山 寒さはどうなんですか。
法林 やはり12月から1月がいちばん寒いです。下のカトマンズとかポカラはだいじょうぶですがへリやピラタスで上へ行きますと、マイナス30度くらいになり、凍傷にかかるほどの時もあります。
富山 そんなに寒いと、画材はどういうものを使われるんでしょうか。
法林 鉛筆、色鉛筆ですね。絵具は凍ってしまいますから。
一彦 今度の展覧会に出す水彩デッサンの中に、描いているうちに空の青い色が凍ってしまったものが一点あります。
法林 私がもうバリバリとスケッチして鉛筆の芯を折るものですから、一彦は鉛筆削りを手伝ってくれます。もう無我夢中で描いています。そういうスケッチをあとで見ると、よく頑張って描いたなと思います。自分で自分を励ましてます。(笑)。

リアリティのある“革新”

富山 ぼくは、福王寺先生のヒマラヤ連作というのは、モティーフと表現とが非常に革新的だという感じを持っているんです。何といっても、人間を寄せつけない厳しい山の世界でしょ。僕は見たことはないけれども、それにふさわしいリアリティが感じられるんですね。で、僕はちょっと、狩野派の現代版だと思っているのですが。
法林 私は小さい時に狩野派を学びましたから、その影響があるのかも知れませんね。
富山 そう、小さい頃にどういう絵の描き方を教えられたか興味があります。非常に厳しく非情な世界を、実に迫真的に描かれる。それは今の日本画の中では、珍しいことです。花鳥風詠を抒情的に描くというのが大流行しているわけですから。その中で非常に貴重だと思うんです。しかし、芸術院賞を受けられた1983年の「ヒマラヤの花」はちょっと例外的な作品ですね。抒情的です。これは何の花?しゃくなげですか。
法林 はい、そうです。
富山 こんな大木になるんですか。
法林 ええ。真っ赤なの、真っ白なの、黄色、青味がかったものといろいろとあって、だいたい3000m前後の所に山一面に咲いてます。人は誰もいない。そこまで行くのに、ヘリコプターで近くの降りられる所まで行ってもらって、雪のない所ですからテントを張る。そこでスケッチをしてまして、3日間もたったらまたヘリコプターで迎えに来てもらうわけです。
一彦 しゃくなげは、ネパールの国の花になっています。石楠花といっても、花や葉はそう日本のものと形、大きさは変わりませんが、高さが15m以上のものもあります。「ヒマラヤの花」は、アンナプルナの近くのゴラパニという峠をヘリでさらに登って取材したものです。あの峠は登山家の方がトレッキングでも通る所なのですが、そこからさらに上へ行きますとアンナプルナ南峰になります。あの時は、軍隊のヘリで行きました。
法林 あれは、絵が小さくてどうにもならないですね。
富山 はあ?
法林 絵の寸法が小さいんです。本当はあの2倍くらいの大きさで描きたかったんですよ。自然が大きいものですから。ヒマラヤシリーズでも、時間をかけてもっと大きいものを描いてみたいですね。
富山 ヒマラヤの連作には、箔を使っていらっしゃいますね。
法林 アルミ、プラチナ、金箔というものを使って、絵の具と両方で描く手法を工夫しました。昔は金屏風の上に描いたりしましたが、絵の具で描いた上に金箔やプラチナ箔を貼るという手法は、今はあまりいませんね。その対象の感じによって、テクニックもみな違います。
富山 モティーフによって技法がかわるのですか。

法林 はい。描き方を技法そのものを変えます。
富山 そういえば、凄い筆勢でまとめられたヒマラヤの作品もありましたね。
法林 はい、ヒマラヤ連作の中でも、富山先生がおっしゃった狩野派的なものと写実的なものと、あと北宋画的なものと、大きく分けると3種類ぐらいになるようです。
富山 だけど僕は、福王寺さんの骨法というのは狩野派だと思うな。以前、山本丘人さんの「夕焼山水」が狩野派的な力強さを持った凄い絵だと思ったことがありました。それ以来ないと思っていたら福王寺さんが……。作風は違いますが、そういう狩野派的な雄勁な表現をなすっているんだなと思って、以前から感心しておりました。奥村土牛さんの「谷川岳」とか田中青坪さんの「浅間高原」とか、ああいう抒情的なものが日本画の山岳風景の基底をなしている中で、福王寺さんの作品はモティーフが特殊で誰でもが取り組めるものでもありませんが、凄いと思っています。
法林 ヒマラヤの、あの人を寄せつけようとしない冷たく澄んだ空気を描くのが、いちばん難しいですね。絵になかなか描けませんね。それを描こうとして一生懸命、死ぬまでヒマラヤを私はやるんじゃないかなと……。絵描きになりたくて、15歳で上京して今年で71歳になりますが、その間田中青坪先生、今は亡き今泉先生はじめ、院展の諸先輩に支えられてきて描いてきましたが、その恩がえしはヒマラヤを含め、自然から教わる気持ちになって一生懸命に描くということだと思っています。
一彦 僕は父の初期の作品が好きなんです。「朝」「暮夕方」とか「かりん」「麦」「石仏」「落葉」とか、何かドラマがあるような作品が。1974年からヒマラヤに向かったわけですが、それが別の方向だったらまたかなり傾向の違っていた作品ができたのではないか
と思っています。

富山 出発点の作品とヒマラヤとは、とても同じ人が描いたようには見えません。両面性をお持ちなんですね。
一彦 今回の父の展覧会にはその両面性、一つは微妙なトーンで構成した画面、もう一つは富山先生がおっしゃるところの狩野派的な男っぽい画面が同時に並ぶことになりますので、父も僕を含めて、今後の方向性を考える良い機会ではないかと思います。
富山 秋の院展で、「えっ、これが」というような作品が出たりして(笑)。どうぞ、展覧会がご成功されますように。心からお祈り致しております。
法林・一彦 本日はどうもありがとうございま・した。

       (『新美術新聞』   No603  平3・5・11より転載)