1
戦前のことである。戦後間もなくの頃に亡くなられた児島喜久雄先生が、何かの折に私に言った。「どうも近頃の絵は、ヨーロッパでも妙に女臭くなった。ルノアールでもボナールでも、マティスでも女臭い一」この言葉は、その頃、私が好きで、そういう
画家たち-ルノアールだのボナールだのの評論などを書いていたことについての「頂門の一針」のような意味で言われたのかもしれなかった。それで私は先生に訊ねた。「先生が男臭いと思われるのは、具体的に言うと、どんな画家ですか?」児島先生は即座に答えた。「旧いところではジォットーだの近代ではセザンヌだのだな」私も即座に先生の謂わんとするところの意味を了解した。
もちろん、この言葉は、男臭い絵だけがよくて、女臭い絵のすべてが感服出来ないという意味を含んでいるわけではあるまい。が、そこには少くとも児島喜久雄という一人の美術史家の美術表現の根源に対する一種の「郷愁」のような響きのあることを私は感じないわけにはいかなかった。その児島喜久雄が生きていて、現今の画壇の状況を見ているとすると、どんな述懐をするだろうか、と私はよく想像することがある。現在の日本の画壇は、日本画の領域でも油絵の分野でも、特に中堅以後の世代の多くの画家たちの作風が清々として「女臭い」方向に流れていると感じられないだろうか。粉飾された抒情の表れ方が、いかにも女性的な作品が多いのである。
こういう現画壇の状況の背景の前に、福王寺法林の作品を置いてみると、この画家の作風がいかにも男っぽく見える。制作の根本にある作情が珍しく男性的なものに感じられる。
ここで、私事に亙って恐縮だが、福王寺法林と私との個人的な関係をいささか述べておく方が、読者の納得を得られるかもしれない。この画家と私は同郷の生れである。東北の米沢に生れている。一世代違うが、私もこの画家も17歳ごろまで米沢で育っている。
この画家が画家として立つ以前の少年の時期から隻眼であったということを、ほとんどの人は今でも知らないのではないだろうか。片一方の眼で絵が描けるものではない、それも距離感の明確に表現され、画面に示されている視野の拡がりも普通一般の画家のそれよりも優っ
ているし、微妙な調子の統一にも鋭敏である、そういう画家が隻眼の人ということは信じ難い。そういう具合に見ている人は世間に普通なのではないか。仮りに私が個人的に福王寺法林という画家を実際に知らないで、その作品だけしか識っていないとすれば、この作者が隻眼の画家だなどとは夢にも思うまい。それに、福王寺法林その人は自分の肉体的欠陥を人前に示すことを極度に嫌い、ましてそのことについて愚痴めいた片言といえども吐露したことはない。左眼に入れてある義眼は、あるいは彼に接する人々に、少し片一方の眼が悪いのかな、といった印象を与えるかも知れないけれど、その一眼が全然視力を失っているということは、恐らく想像もしないのではないか。
この小稿の中で、私は福王寺法林が隻眼の画家だという点に多少でも深入りして述べることを最初は止めようと思っていた。少くとも書くことを躊躇していた。が、書いているうちに、この優れた画家が、隻眼であろうと双眼であろうと、そんなことは問題
ではない。ただその絵がよいか悪いかだけが問題なのであって、わたしはここで福王寺法林が隻眼の画家であるということで、その作品を買いかぶって見て貰いたくないし、割引きし見て貰いたくもない。そんなことは無関係だ。この画家がもしそういうことで世間の同情を買うような場合があったとしたら、サッサと画家など廃業してしまうだろうと思う。福王寺法林はそんなケチな根性の画家ではない。
私は、ただ隻眼でも人間には福王寺法林のような絵が描ける!という事実に驚嘆しているのだ。
2
福王寺法林は16歳の時まで米沢にいた。そして16歳の時、本式に画家たらんことを志して上京する。その間のことをこの画家は余り語りたがらない。大体、福王寺法林は自分のことについて自分から語ろうとしない人である。いつか、何かの折に、上京して苦学をしました、とぽつりと呟いたことがある。この画家が、苦学というからには、よほどの辛酸を嘗めたのであろう。
22歳の時に、召集されて中国戦線に配される。それから四年半、中支、南支と転々と戦線を移動し、最後には垂慶の近くの桂林で終戦を迎える。山砲の部隊であった。ある時、私が彼に、片一方の眼が駄目なのに、よく兵隊に召集されたものだな、と不審がると、いや私は片一方の眼でも実弾射撃の成績などはよかったです、と答えた。万年上等兵だったと苦笑しながら私に語った。
戦争に召集されて郷家に戻った福王寺法林は、あり金全部をはたいて絵の具を買い、それを縁の下の土の中に埋めて中国戦線に出かけた。戦争が長びくにつれ、文字通りの悪戦苦闘が続くことになる。部隊の移動の長い道中で、泥濘の中で彼の軍靴は破れ、
足の骨まで露出するほどになった。それでも歩かなければならない。部隊からの落伍は死を意味している。そういう時に、福王寺上等兵の目蓋の裏に浮んでくるのは、郷家の縁の下の土の中に埋めてきた絵の具だったという。あの絵の具を使わないで死んでたまるか、と自分で自分を励まし、必死で歩き続けた、とある時、私に語った。画家としての執念が、彼を死から救ったのである。
同様のことが終戦直後にも起った。このことの方が前記のことより更に信じられないような事件である。桂林附近で終戦になると、部隊は四分五裂し、福王寺上等兵は同じ隊の兵隊8名と一緒に香港まで半年かかって脱出した。桂林から香港まで何千キロあるのか、気の遠くなるような距離である。それを昼は人目につかぬように隠れ、夜中に歩いて、その長道中を突破し、香港の印度部隊に投降したというのである。普通の体力、気力で出来ることではない。もちろん生命への執着力は強かったから出来たことには違いないが、福王寺法林の場合は、其の裏に画家としての執念の逞しさを感じさせないではおかない。かれは中国戦線に4年半いた。私が米沢でこの画家に初めて会ったのは、それから間もなくの時期であった。そして彼の本当の画家らしい画家としての出発はそれ以後といっていいかもしれない。
3
終戦後の混乱の時期に、私は山形在の農村の仮寓を引きはらって、東京荻窪の畠の中の文字通りの堀立小屋のような小さな家に越してきた。福王寺法林も現在の牟礼の家のある同じ場所に、私のところと似たりよったりの小さな家に移ってきた。