福王寺一彦展によせて  富山秀男

 院展同人の福王寺一彦さんが初入選以来の院展出品画を中心に、新旧の作品を加えて初めての個展を開くそうで楽しみにしている。まさしく新進気鋭のこの日本画家の、ここ20年来の全力投球といっていい誠実無比な仕事振りが、改めて検証できる絶好の機会となるにちがいないからである。
 福王寺一彦さんは、知る人ぞ知る福王寺法林画伯の二男だ。名前が珍しいからこのことは相当広く知られているはずだが、父親は昨秋文化功労者に挙げられたほどの日本画界の重鎮であり、一彦さん自身も他ならぬこの父親の薫陶をうけて、日本画家になった経緯がある。現に彼はごく少さいころから父の画室の中で暮らし、絵をかく手順や表現上の勘所などを見知ったうえで、自ら絵をかくことに親しんできた。その結果は、中学生ごろから将来は画家になるものと決めていたといわれる。
 福王寺一彦さんは、1955(昭和30)年東京の三鷹市で生まれ、1974(同49)年に成城学園高等学校を卒業した。明治期の教育学者澤柳政太郎が晩年創設した成城学園は、個性の尊重と自学自習の精神を基盤とした特色ある私立校だが、福王寺さんはここの中学、高校で自由主義的な教育を満喫すると同時に、美術部のみならずサッカー部にも所属して、精いっぱいの充実した学生生活を送った。いやそれだけではない。クラス委員や常任委員を引き受けるほか、人が足りなければラグビー部や水泳部の対外試合にも助っ人として参加するぐらいの積極的な生徒だったらしい。上背があって脚の長い彼は、確かにサッカー向きの身体をしており、シュート力はもとよりゴール前のヘディングではさぞや強かったことであろう。絵をかく以外に、フェアプレーの精神と体力の限界に挑む生き方を早くから身につけたことは、その後の人生にどれほど役立ったかしれまい。
 高校在学中の1973(昭和48)年に、福王寺一彦さんはフランスなどヨーロッパ各国に美術見学の旅をした。すでに画家志望を決めたうえでの遊学で、古典から現代の作品までをひと通り見て廻ったのである。このとき初期ルネサンス時代のフレスコ画が日本画の色質に近いこともあって、イタリアがとくに気に入り、その後20歳代の感受性の鋭い間に、改めて6回ほどイタリアに出向いたという。一方高校在学中のこの時期には、50号ぐらいまでの作品制作も盛んに行うようになっていた。今回出品される《太陽》(1972)や《月の光》《蝶》(1973)などがその一例である。もちろん彼は東京芸術大学への進学をめざしてトライしたが、これは一発では決まらなかった。彼は焦る気持をおし静めながら、予備校に入って本格的に受験勉強をはじめようとした矢先に、こんどは父
福王寺法林画伯からの誘いが降って湧いたのである。高校卒業直後の1974(昭和49)年春のことだ。
 父は、こう言って息子の反応を質した。こんど世界の雄峰ヒマラヤに取材しようと思うのだが、一緒に行ってくれぬかと。50歳代に入って、台湾や南方地域の取材をもとに大作を制作してきた父親は、ネパール・ヒマラヤに挑戦することをライフワークとしたいと思いつめ、息子の協力を求めてきたのである。役目は荷物運びと現地でのヘリコプターや単発機などの雇い上げ交渉の下働きだが、従順な息子はこの頼みに応ずることで、いままで以上の父親の画家魂を目の当たりにすることになった。このヒマラヤ旅行は以後毎年のように繰り返され、14、5回におよぶ。まったく命がけといっていい取材で、単発機の片側のドアを開け、幾重にもシートベルトで縛った身を乗りだしてのスケッチを父はするのだ。高度7~8000メートル、気温零下30度ぐらいだと、絵具は凍って使えず鉛筆の芯がボキボキ折れるという。傍で息子は無我夢中で鉛筆削りの手伝いをするのが仕事だったそうである。絵かきが対象物と取り組む真剣勝負の凄まじさを、これほど具体的に身に泌みて目撃した人は少なかったろう。
 とはいえ福王寺一彦さんは、最初から父親どおりのモティーフや画風を真似るつもりはなかったらしい。同じネパールやインドに同じ回数旅しても、ひたすら巨峰を仰ぎ見る父に対して、彼はもっぱら麓の住民の平和な生活風景の方に目を注いだ。すなわち人を寄せつけない険しい山岳風景に、男性的な力強い表現を与える父に対して、血を分けた息子の方は静かな農村風俗に、牧歌的なやさしい情趣を汲みとろうとするのだった。比喩的にこれをさらに補足するなら、現代版狩野派の父に対する大和絵の違いと言い換えてもいい。

父親に師事しながら、息子には息子の考えと目標があったことは見落せないところだった。
 大学受験を忘れたわけではなかったが、そんな明け暮れを重ねるうち、院展に人選する方が先になったことが彼の運命を変えた。進学より連続入選を狙う方に自らの将来を賭けてみたい気持になったからである。こうして1978(昭和53)年院展初入選以来の福王寺一彦さんの出品画は、春、秋の院展を通じ、《追母影》と題する連作(1978~85)となって、1から11まで連続することになった。そしてその間、早々と院友(1980)に推され、さらには奨励賞(1985)をうけるまでの快進撃となる。作品は一人か二人の若い女性像を表わしたものが殆どで、漣のたつ広い水中に静かに佇む姿が多い。それらは風俗からみてネパールの女性と思われるが、必ずしも写実そのものではあるまい。というのは「面影」をわざわざ「追母影」と銘打ったところは、母ないし母性一般をイメージしているように想われるからである。表現は極めてやさしく綿密で、若さの特権ともいうべきロマンティックな抒情性が渉みでている。この寒色系の彩色を中心とする綿密な表現、それを裏づける日本画としての正統的な技法は、最初から変らないこの画家の特徴の一つといって支障なかろう。
 30歳代に入った福王寺一彦さんは、こんどは金泥地に緑青や群青を生かした風景画に転じ、ますます典雅な画調を成熟させてゆく。その最初がイタリア風景に取材した《トスカーナ》(1986)であり、翌年の《フアラフイン遠雷》(1987)では初めて大観賞をとって特待に推された。またこの年、第9回山種美術館賞展に《悠野》を出品しているのも、世間の人気と期待の高まりを反映したものといえよう。以来彼の風景画は、イタリアであれネパールであれ日本であれ、遠く山並みの重なる広い眺望の中に人家が点在、ときに小さく働く人間の姿が添えられて、大自然の雄大さがゆったりと強調される折目正しい表現となっている。描法は相変らず精緻で抑揚にとむが、やがて大きな日輪や太陽が加わるにおよんで、いやが上にも象徴性が加味されてきたことは見逃せない。こうして1992(平成4)年日本美術院奨学金(前田青邨賞)をうけた福王寺一彦さんは、同年秋の院展出品画《螢》(1992)によって年若く院同人に推挙されたことは記憶に新しいところであろう。ときに37歳である。
 ところでこのころから、福王寺さんの作品には再び大きな変化がおこっている。その過渡期の作が、恐らく《螢》の一作前の春の院展に発表した《月下洗菜》(1992)だろうが、そこでは満天に星のきらめく夜空に晴々と満月が輝き、その光によって地上の作業が営まれる様子が描かれている。つまりこの画家の作品にはじめて群青一色の夜の帳帷が半分おりたわけで、以後群青時代といっていいほど全画面夜景の連作が続いているのが、現在までの福王寺一彦の足どりといって間違いではなかろう。その間には《螢二》(1996)や《月の輝く夜に〉(1998)などのもっとも注目すべき力作がでており、前者で文部大臣賞、後者で内閣総理大臣賞をうけているのは特筆しておいていいことにちがいない。
 福王寺さんは言っている。「絵を描く場合、どんなに描いても答えが出るというものではありません。描いてきた痕跡だけが残りまもあらゆる作家の画風や個性というものは、意識して生まれるものではなく作品を措くことの積み重ねで生まれてきま焉画面の中の形や色彩の雰囲気に、線の一本一本に、その作者の性格や思想、人生観が反映されまもその認識の中で、給を描いている時、普段の生活の中でも、これを描きたいという最初のイメージを大切にしながら仕事が進められるように心掛けていまも」「最近の私の作品は、時に新古典主義とか、新しい大和絵と評されることがありまも確かに古典を観察し学ぶことも必要だと思いますが、それ以上に、自然から教わる気持ちで、自然の世界から学ぶことが基本であると考えていまも自然が創り出した一つ一つの形、その変化に自分自身を託し、一生懸命描くことで絵画空間を創っていきたいと思います」、と。
この真摯な心掛けと一途な情熱さえあれば、いまの仕事を一つの経過点として、さらに深い精神性と強い緊張感のある画風を生みだすだろうことは期して待つべきものがある。こんどの初個展を一つの契機として、一層精進されんことをこそ祈っている。 

(元 ブリヂストン美術館館長・美術評論家)

福王寺一彦 1972-1999 図録より転載

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