平成10年(1998)は日本美術院の創立百年にあたり、東京では記念の展覧会や事業が行われたが、山形でも企画展「院展にみる山形の美術100年」を開催した。事前調査の結果、明治31年(1898)の創立当時以来、日本美術院の運営に関与したり院展に出品した山形県関係者が百人を超えており、その数の多さに驚くとともに山形と院展の結びつきの強さ、深さを実感させられた。
現同人の福王寺法林先生と一彦さんにも出品を依頼し、作品の選定や借用手続、搬送など準備を進めていた矢先、再興第83回院展で一彦さんの《月の輝く夜に》が内閣総理大臣賞を受賞したというニュースが入った。早速、上野の東京都美術館へ。
《月の輝く夜に》の前には、不思議な気が満ちていた。周囲の作品群とは劃然と区別された大きな空間を支配しているのだ。その空間に吸い込まれると、会場の雑音が完全に遮断され、静寂の世界に包まれる。「これまでこんなことがあっただろうか…」。
群青の色が主調として画面全体に広がった作品は、再興第77回院展(1992)の《螢》、第79回(1994)《月の鏡》、第80回(1995)《星降る海に》、第81回(1996)《螢二》など、秋と春の院展を合わせ10点ほどあるだろう。とりわけ《螢》を見たときに、私は理由もなく嬉しくなり「螢はいい、螢はいい」と何度となくつぶやいたことを覚えている。一彦さんに会うたびに「螢はいい、螢が好きだ」と恋情を吐露するように伝えてきた。そして〝一彦の群青〟を期待しながら院展を見てきた。
《月の輝く夜に》を前にしての体験は、一連の群青作品とは全く違っていた。《螢》のときにもなかった初めてのものだった。私は、画面から降り注ぐ群青の光を浴び、私自身が群青に染まって、ただ静寂の時の流れに身を任せていればよかった。作品を鑑賞することも、まして解釈する(読み解く)ことなど必要なかった。何が描かれているかさえ見ようともしなかった。-いま私は、余りにも個人的な体験を語っているようだが、美的体験とは本来個的体験であり、その中にひとつでも隠された真実が見出せればよいと思ってお許しいただきたい。
従来の群青作品のときには、一彦さんの表現力と筆致に感心しながらも、何か違和感が残った。群青と金泥の組み合わせを用いたものには古くから、紺紙金泥経や阿弥陀来迎図などの仏画があり、両者が調和した場合には神秘的ともいえる荘厳な美が誕生する。日本画家福王寺一彦が自己のイメージを表現するのに最も適した顔料として日本画独特の群青と金泥を選び取ったことは首肯できる。しかし、この両者の調和は至難の技であり、失敗すると荘厳どころか、良くて装飾的、悪ければ俗になる可能性が高い。
それゆえ、《螢》以降の一彦さんの歩みは、研究と試行錯誤の連続であったといえる。最初の《螢》の場合、螢の光に浮かび上がった木々の葉の緑色と実の粒々の朱色が画面に奥行き感=仮象の空間を造りだし、見る者の意識は無意識のうちに絵画の世界に入り込み、彷裡うことができた。ところが、画面が群青と金泥の二つにより純化するにしたがい、画面は私の意識をはね返すように思えた。
金泥で描かれた月や星々の幾何学的な配置、水面に映った月の楕円形、月に照らし出された金色の道筋、子牛を彩る金色の輪郭線、月に照り映える女性の顔や衣装。これらが目に入った途端、私の意識はざわめき立ち、私にとって群青の絵画空間は単なる群青の壁に変化してしまった。
絵画を描くという行為は、現実から自立した独自の世界を創造することであり、具象と抽象の区別を問わず、絵画は本質的に非現実であるはずだ。もちろん支持体や顔料など素材の実在性に依拠している仮象としての非現実であるのだが・・・。
非現実の絵画空間に、作者によって意識的に持ち込まれたこれらの金色の図像が、私には非現実的なもの(造形表現上の内的必然性のないという意味で)と映ったのではないかと思う。本来非現実の世界に混入した意図的非現実という二重の非現実性は、瞬時にして私の意識をざわめかせ、現実の世界へ連れ戻してしまう。この異化作用が起きてしまうと、私が目にするのは実在の顔料としての群青であり、その粒子の平面的な集合に過ぎなくなってしまう。その時、顔料の表層と私の皮膚が意識され、この二重の境界によって画面への感情移入は途絶えてしまうのだ。