私は山を知らない。富士山はおろかすぐ近くの高尾山に登ったことさえない。ましてヒマラヤ連峰がどんな山並みなのか想像したこともなかった。ただ地球が真ん丸ではなくて多少歪んでいるのは、ヒマラヤのせいだと聞いてその高さと規模に驚いたことはある。世界の屋根とか神の山とよばれるゆえんなのであろう。
いや一つだけ忘れられない話がある。私の敬愛する美術愛好家の松方三郎さんと話をしていたとき、この有名な登山家がエベレストについて語ってくれたエピソードだ。松方さんは1970年に日本山岳会からエベレスト登山隊長を仰せつかった。70歳を過ぎての現役最後の御奉公である。出発前のひととき松方さんは自分の任務の一斑を話してくれた。ジャーナリズムはエベレストの山頂に日章旗をたてれば成功、それができなければ不成功と書くだけだが、プロの世界ではそれだけでは済まない厳しい採点法があって難しいのだ。それは参加隊員の一人一人について行われる事後の追跡調査である。自分は6000メートル級のベースキャンプまでしか行かない。そこから無線で登頂隊の指揮をとるだけである。屈強の若者に「行け!行け!」といって追い上げれば、必ず8840メートルの山頂に旗を立てることはできると思うが、隊長の任務はそれで終わらない。彼等が全員無事下山して帰国したのちも、20年、30年と長期にわたって健康状態がチェックされる。怖いのは失明者がでることだ。なぜそうなるのかいまの医学ではわからない。しかし登山というのは人間の身体のもてる耐久力と消耗度の闘いなのだから、そのバランスの読みを間違えれば後遺症がおこるものがでて隊長としての技量を問われる。世界の登山史上に名隊長と書かれるかどうかは余程のちのことなのだから責任は重い、と。このとき植村直己、松浦輝夫の両隊員は日本初のエベレスト登頂に成功した。だが前者はその後つぎっぎと新たな冒険を試みつづけ、最後は山で命を落としたから、さぞや松方さんは草葉の陰から気をもんだことであろう。山の恐ろしさを物語る一挿話だ。
閑話休題。さて本論に戻ろう。その恐ろしいヒマラヤ連峰に挑む日本画家に福王寺法林さんがいる。四方山でかこまれた山間の盆地、山形県の米沢市で生まれた福王寺さんは、日本中の山という山を制覇しきって1974年からはヒマラヤと格闘中だ。その苦労の多い一か月単位の取材旅行は、現在までに9回を数えるのではないか。以来この画家はヒマラヤの風景を描きつづけており、それをライフワークとして自己の画業を大成しようともくろんでいるかに見られる。恐らく壮大な気宇の持ち主である作者には、これ以上の好モティーフがいままで見出せなかったからにはかなるまい。
もちろん福王寺さんは登山家ではないから山頂を極めるのが目的ではない。彼はネパールのカトマンズやポカラを基地として、ヘリコプターや単発機を雇い上げ、ネパール・ヒマラヤの山々を空中から探訪する。登山用の羽毛服で身を固め、酸素吸入器とスケッチ用具を持って、右側のドアを開けたままパイロットとともに飛行するのだ。ヒマラヤの峰々は高いだけではない。渓谷が奈落のように落ちており、目の眩むような眺めである。しかもヘリコプターで昇れるのは精々高度7000メートルが限界とされ、それ以上は危ないという。彼は機内で、山の大体の骨格をつかむぐらいの大まかなスケッチをとった上で、どの辺の峰に降りたいかをいって着地してもらわなければならない。そして視界のいいところまで自力で歩き、そこで綿密な山のデッサンに打ち込むのだ。この画家がデッサンの鬼であることは有名である。現場でとことん対象をとらえ、対象になりきる。気象条件次第というもどかしさはあるが、それの繰り返しを可能な限り一週間でも二週間でも続ける。朝早く暗いなかを、夜明けを待つように目的地におりたつ時など、パイロットも画家も命がけというのは無理もなかろう。
こうして1974年からはじまった福王寺さんのヒマラヤ連作は、その後譬えようもない広大な眺望を収める大画面にまとめられて、なんと毎年の院展を賑わせてきたことだろうか。