私は強風下の一夜、切り立つ崖の上のホテルで眠れない時間を過ごした。しかしそれほど無惨な自然も朝夕の光を浴びたときは、一種の美しさを放つ。それを悲愴美といったらいいのか凄惨美と呼んだらいいのか知らないが、決して詠嘆を許さない息を呑むような非情な美しさである。ところがその後ある高名な日本画家の描いたグランドキャニオンの絵に出会うことがあって、私はしばらく日本画が信じられなくなる一時期がおこった。というのはその絵が余りにも花鳥諷詠の抒情的表現でまとまっており、私が感じた対象のリアリティーとは余りにもかけ離れていたからである。
それに較べて福王寺さんのヒマラヤには、そうだろうなと誘い込まれるリアリティーを感ずる。見たこともないのにと言われそうだが、抒情的でないからである。対象の真に迫り、それを抉りとって伝えようとする態度が、作風のうちにうかがわれるからだ。もっとも山麓の町や花を描き入れたものではそうとはいえない。私が魅入られ感心するのは、およそ人間をよせつけない厳しさをもつ山岳を力いっぱいに描いた、たけだけしいまでに非情な景観である。もちろんいくら非情といっても、対象を視る作者の主観や感情移入の強弱は当然あろう。しかしそれが最初から定形化し、すべてをそれに引き込むといったやり方とは違う。古来日本画は、装飾性や抒情性をもつことが良かれ悪かれ特質とされてきたが、その時外にでて日本画の固定観念や現状の安穏を打破する仕事があっていいのではないか。福王寺法林さんの長年にわたるヒマラヤ連作をみるとき、その行き方と健闘ぶりに大きな共感と期待を覚えるのも私一人ではあるまい。
(東京国立近代美術館次長 1991年当時)
1991年 福王寺法林展 図録より転載