この言葉は鮮烈である。日本画とは本来そういう自分が対象になりきるものであり、そうあるべきであろう。ただそうなるためには、捨身の奮闘と研究がなければならぬことは当然である。作者の場合、若いときの惨憺たる苦学、中支戦線での筆舌に尽くせない艱難辛苦。それらを乗り越えて、いささかも怯むところのない画道精進の気力とファイトは福王寺さんの天与の資質である。ヒマラヤの絵はまさにそうした資質がおのずからに求めて昇りつめたところと見てよかろう。
ところで、私が福王寺法林さんを最初に知ったのは、昭和30年頃のことであった。昭和27年に国立近代美術館が創立され、当時その実質的運営に当たったのが次長の今泉篤男さんであったが、私は氏を助ける課長の役目で、いろいろな局面で今泉さんと行動を共にした。その今泉さんが同じ米沢出身の福王寺法林さんの指導にも当たっていたところから、いつとはなく氏の院展出品画にも注意を払うようになった。「朝」とか「かりん」とかが秀作展に選ばれ、「落葉」「岩の石仏」「北の海」といった力作が出て来た頃のことである。作者が30代から40代に入ろうかという時で、新世代のホープとして抬頭しかけた時期といってよい。間もなく院の同人にもあげられ、「石仏」や「島灯」を出し、やがて印象にのこる「万博夜景」や、内閣総理大臣賞を受けた「山腹の石仏」などがつづいた。そのあとに出た高砂族取材の作なども悪くなかったが、そこらから、ライフワークといってよいヒマラヤのシリーズが始まったわけである。このシリーズの10年目頃に当たる「ヒマラヤの花」が描かれた翌年の正月、師と仰いだ今泉篤男さんが逝去、その同じ昭和59年に作者が日本芸術院賞を受けたのは何かの因縁といえるかもしれない。
さて、福王寺法林の芸術いかんということになるが、私はその点で今泉さんの指摘はさすがに的を射ていたと見ている。その要点は二つあり、第一点は法林の芸術は男っぽいということである。これは大自然へのひたむきの傾倒がついにヒマラヤに結集した迫力の中にも表われているが、又そのことはヒマラヤ・シリーズ自体の風格、ことに月や残照や花などのいわば優しい風趣の扱いかたの中にも自然に渉んでいるようである。そういう点に関して今泉さんは次のように書いている。