大正9年(1920)11月10日
山形県米沢市矢来町に父・政雄、母・せんの長男として生まれる。本名雄一。8人兄弟の2番目、ただ1人の息子である。
福王寺家は、米沢の上杉藩の槍術師範の家系で、さらにその昔は、越後国新潟に近い堀ノ内にあった下倉城の城主だった。上杉謙信の時に、福王寺家は上杉家と養子縁組となり、上杉藩の会津から米沢への移封とともに移ってきた。
大正15/昭和元年(1926)6歳
父親とともに狩猟にゆき、銃の暴発によって左眼を失明する。画家にとって大変大きなハンディキャップとなる隻眼を、法林は、持ちまえの気性によって克服するが、それには、武士の家柄という事実と、この不慮の事故に負けまいとする生来の気質が深く作用しているといえよう。
昭和3年(1928)8歳
米沢在住の狩野派の老画家上村廣成に日本画の手ほどきを受ける。
昭和7年(1932)12歳
3月 山形県米沢市立西部尋常小学校を卒業する。
昭和9年(1934)14歳
12月 山形県米沢市立松岬高等小学校を家庭の事情により中退する。
昭和11年(1936)16歳
4月 画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに住む。
昭和11年(1936)16歳
4月 画家を志望して上京し、文京区根津千駄木町のアパートに 住む。
昭和13年(1938)18歳
師・上村廣成が逝去する。
昭和16年(1941)21歳
3月 召集を受け、中国戦線に配属される。その後、4年半にわたって中支、南支と転戦し、最後には桂林で敗戦を迎える。その後、法林は、同じ隊の8名の兵士とともに香港までの逃避行を行ない、同地の印度部隊に投降する。召集をうけて郷里に帰った法林は、全財産をはたいて岩絵具を購入、それを縁の下の地面に埋めて出征した。長く苦しい中国戦線での行動を支えたのは、その岩絵具であり、脱出行をなしえたのもその存在であったであろう。