伝統を背負う現代画家     加藤貞雄

 福王寺一彦さんが、院展出品作を中心にして、これまでの画業をまとめた展覧会を開くと同時に作品集を出す。春秋の院展で、ずっと、一彦さんの作品を注意して見てきたから、ネパール、インドに取材した、叙情的で神秘的な、その独特の絵画世界のいくつかは、即座に思い浮かべることができる。だから、それらを一堂に集めた時、さぞ見事な会場になるであろうと、私は楽しみにしている。ここでは、「追母影」シリーズに始まる一彦さんの作品系列や変遷について、作品に即して触れるべきだろうが、それより書きたいことがあるので、思うところを綴らせてもらうことにする。
 一彦さんの作品を注意して見てきたというのにはわけがある。それは、私が私淑していた今泉篤男先生が、山形出身の同郷ということで、福王寺法林さんと一彦さん父子を、いろいろと指導し、助言されていたので、今泉さんからお二人の話を聞き、関心を持っていたからである。今泉さんは、美術評論家の中で最も公平で、かつ、いい悪いのはっきりした方だと私は思っている。しかし、山形県出身の作家に対しては例外なく暖かく、厳しい批評をしながら親身に接しておられた。それがおかしく、今泉さん亡きあとも、今泉さんならどうおっしゃっただろうかと考えつつ、福王寺父子、ことに一彦さんの絵を見るようになっているのである。 
 もちろん、絵についてどうこういうわけではない。文字通りよく、つまり丁寧に見るというだけである。時には意見を求められて、「とことんまで描ききらないと気がすまないらしいが、
ちょっと描き過ぎではないか。もう一歩手前で止めてみたらどうだろう」というような感想を話したことはあるが、もとより、一彦さんは、そんなことは意に介さなかったに違いない。とにかく、時間をかけ、丹念に、私なんかが見て、100㌫で満足しないで、120㌫も粘った感じのする絵を描きつづけている。それが、隅から隅まで工芸的な根気作業でありながら、絵画としての空間把握と気品があるのに、私は感心する。だから、それはそれでいいと私は思っている。一彦さんはいま、顔料を塗り重ねる、工芸的な段取りの営為のうちに、現代に生きる画家として、自分の世界の表現を賭けているのだろう。
 昨年の院展で内閣総理大臣賞を受賞した《月の輝く夜に〉を見た時、そういう思いを強く抱いた。この作品は満月の夜景である。暗暗たる月明に光る谷川を挟む山の林。ネパールの風景らしい。まん中に牛がいる。両岸の樹々は、中央上部の大きな月と牛を結んだ線を軸とする、シンメトリーに近い構成で、それが不思議に落ち着いた構図になっている。それで気がついたのだが、画面が正方形なのである。正方形はこれが初めてではなく《トスカーナ》や《追母影Ⅶ》《月華舞う蝶》など、春の院展の出品作でしばしば試みているが、2.3㍍四方の《月の輝く夜に》のような大作はこれまでなかったと思う。大作だから見上げるように作品を眺めたので、最初、私はそれに気づかなかったのだ。
 真四角というのは、縦長や横長と違って、画家たちが絵にしにくい(構図がとりにくい)として、ふつうは避ける画面である。その大作に立ち向かう一彦さんに、院展の伝統の中で、伝統に埋没すまいという、強固な意志を感じるが、それがこの作品で生きたと思う。何度にも分けて塗り重ねた効果が、月明を受けた谷川の石や、緑の木の葉、赤い木の実を浮き立たせ、深遠な叙情が漂う。距離を置いて眺めると、木々のたたずまいが、しっかりと目に映り、どことなく、春草の《落葉》に通じる印象がある。そういえば、線描は見られず、今風の朦朧体という感じもあるが、もちろん一彦さんに、そういう意識も計算もなかろう。

 一彦さんの院展初入選は、昭和53年(1978)の《追母影》である。これは、昭和49年以来、父法林さんのネパール・ヒマラヤ取材に同行した成果をものした作品だ。頭に背負い紐をかけて、龍を背負った少女が、裾を水中に浸しながら、両手を前に組んでたたずむか歩くかしている、ロマンティックで初い初いしい絵だ。いわば、一彦さんの原点ともいえる作品であろう。そして、同じモティーフの「追母影」シリーズを続け、昭和55年に院友に推され、以後、奨励賞、大観賞などの受賞を重ねて、平成4年、37歳で同人になっている。近年では、異例の若さである。この間、平成3年度の文化庁買上げ優秀作品に《農耕の民I》が選ばれている。この順調な歩みに、親の七光りをうんぬんする非礼な声が聞かれないでもなかった。情実を暗にほのめかす中傷のたぐいである。
 そういうことを、一彦さんが、気に病まなかったはずはない。それは二世の宿命のようなものであるけれども、時には、父の子であることをうっとうしく思ったこともあったであろう。けれども、一彦さんは、作品に集中した。画家は絵が勝負である。私は、文化庁買上げの選考に関係したのではっきりいえるが、選考委員に誰一人異論はなかった。そして、一彦さんは、いま、自力で実力を示している。というより、院展の若い世代の核である。一彦さんは昭和30年生まれだが、その同世代以後の若手が、院展の中で育ちつつあるいま、一彦さんの存在が与えるインパクトは大きい。それを私は頼もしく思っている。
 一彦さんは、もの心つく頃から日本画家になるべくして育った。なにしろ、法林さんの制作を真近に見る日常である。小学校に入る前、すでに絵具溶きをするなど、徒弟のような日々だったという。しかも、父について、院展の会場に足を運んだ。まるで、生まれながらにして、院展の中で成長したようなものである。一彦さんが生まれた頃、法林さんは日本美術院院友で、その後奨励賞、大観賞などを受賞、華々しいデビューの時期である。一彦さんが五歳の時、法林さんが同人になっているのだから、法林さんの画業が、一彦さんの成長とともに進んだことになるわけだ。その父の、精魂傾けての格闘を目の辺りにしていた一彦さんが、自らも画家への道を歩み始めたのは、ごく自然の成り行きだったであろう。当然のことながら、年少のうちから、技術的な基礎は備わった。
 今回の展覧会に出品されている、院展出品以前の、高校在学中の作品に、当時、すでに一彦さんの技術のレベルの高いことが示されていると思う。けれども、一彦さんは、東京芸大日本画科を目指し、四たびチャレンジしている。結局《追母影》が院展に人選したため、芸大に進むことをやめ、法林さんの指導のもと、制作に打込む。興味深いのは、この《追母影》が、昭和49年の、第一回目のネパール・ヒマラヤ行き以来“芸大受験浪人”時代のまる3年をかけての作品ということである。この頃から、一彦さんは、納得いくまで打込むという制作姿勢を貫いている。
 法林さんの画業では、ヒマラヤの連峰を描いた、雄渾な大作の連作が、誰しも思い浮かぶ。ヘリコプターで、空気の薄い高空に上り、壮麗な峰々をスケッチするという冒険行を十数回行っているが、その全てに、一彦さんは同行し、手足となって父を助けている。そして、自身も、ずっと、インド、ネパールの風物をモティーフにして描いているのだが、父と同じところを取材しながら、描く対象ががらっと違うのがおもしろい。どうも、一彦さんは、父と同じことはやるまいとしているようである。法林さんによると、一彦さんは、いうことを聞かない(絵の上で)そうだ。どうやら、一彦さんは、たんに師風を継ぐのをよしとせず、自分の血潮のなかから噴出する芸術的衝動の自分だけの表現を、頑固に追究しようとしているように見える。

 ところで、院展の永い伝統の重みを、いやおうなく背負っている若い世代が、現代に生きる画家として自覚する時、伝統と、日本画という出来上がった概念を超える今日的なインパクトとの振幅の大きさに悩み、心中の大きな葛藤にもだえるであろうことは想像に難くない。その点、一彦さんは、身近に父を見ながら、今泉さんという、すばらしい伯楽の薫陶を受けた。さらに、今泉さんを介して、洋画の岡鹿之助さんに、親しく接することができた。それらは、まさに得難い教えとなって一彦さんの仕事に生きているに違いない。その一彦さんの世代を、昨年創立100周年を迎えた日本美術院の系譜の流れの中で見てみると、ちょうど岡倉天心を中心に旗挙げした初期の正員たちからみて、ひ孫の世代にあたる。
 横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山ら、大先達たちが、世間の無理解に抗して、新しい日本美術を起こそうとした熱い思いが、院展の源泉にあるが、この世代にとって、それは歴史に過ぎないかもしれない。また、父の世代が、戦後、新しい世界の美術認識が流入し、日本画の存亡すら危ぶまれたりするなかで、行く道を模索した苦闘も知らない。彼らが画家として育つ頃は、いわゆる日本画について一種安定した概念が復活していた。その枠の中で、ごくふつうに、素直に描いていれば、日本画好きの大人たちがいて、やっていけるという状況でもある。しかし、時代の感覚も新しい表現も、決して無縁ではなく、問題意識もあるから、日本画という概念を超えた創造への意欲はある。ただ、彼らにはそれを、伝統の否定や日本画の制作の段取りの破壊といった過激な手段でではなく、伝統的な日本画の枠の中でやろうとするおとなしさ、行儀のよさがともなっている。それが、一彦さんたちひ孫世代共通の特徴のような気がするけれども、このところ、院展のその世代の作品の傾向に、従来なかったものの動く気配が感じられる。
 彼らの多くは、東京芸大はじめ、美術系の大学に学んだ作家で、画塾育ち、しかも父が師という一彦さんは異色だ。法林さんも、学校に行かず、田中青坪門で育ったが、ほとんど独力で画業を深めたといっていい。その父を、生きた手本としてきた一彦さんは、そのことによって、自分を深く見つめる、そして自分自身をいつわらないで絵を描くすべを、自分で得たのではなかろうか。一彦さんにとって、芸大に行かなかったことが、かえって強味になっているかもしれぬ。それが、一彦さんの、作品に対する計画性、粘りの発揮につな
がっているとしたら、なおさらだ。誰にも習わなければ、誰をも超えられる。そういう意味では、一彦さんは、院展のひ孫世代のなかで、もっとも、現代の絵画としての冒険と実験をやり易い作家であろう。
 一彦さんは、文化庁買上げとなった《農耕の民I》から6年置いた平成9年の院展に《農耕の民II》を出した。IとIIをつなぐと、Iは左半面、IIが右半面を成すのが、当初からの構想だったようだ。一枚の画面になってみると幅4.38メートルの大作である。この大パノラマ、結局、6年がかりで完成したことになる。《螢I》と《螢II》も、同じように、年月をまたいで、二作合わせて一作の大作である。それには、院展会場の壁面の事情があるかもしれないが、このような粘り、持続性のなかに、用意周到な計画性があることを教える。こうした絵づくりは、正方形の画面の追究とともに、一彦さんが、右顧左眄することなく、自分の絵画世界の表現を、まっしぐらに進めていることを示すものだ。その営みが現代の絵画のなかで、概念的な日本画の幅を広げてくれることはたしかであろう。一彦さんの絵の、この先の展開がどうなるか、期待される。     

       
                     (元 茨城県近代美術館館長・美術評論家)

                     2002年 福王寺法林・一彦展 図録より転載


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