自分は軍隊で生命の瀬戸際を味わった。絵は生命がけで描いているのであり、危険はもとより覚悟の上だと説得したのだという。軍の操縦士はさすがに大胆で、どんなところでも、少し平坦な場所さえあれば降りてくれて、スケッチがはかどるようになった。夜明け前の暗い時に飛んで高空で日の出を待っていると、まっ暗ななかでパっと空と峰々の頂きがバラ色に染まってくる。そんな瞬間をスケッチできるのも、軍のヘリコプターのおかげだという。こうして福王寺法林は、子供の頃から念願したヒマラヤを描きつづけているのだが、私が感心するのは、福王寺法林の空間把握の的確さだ。福王寺法林が師と仰ぐ\郷里山形の先輩である美術評論家今泉篤男氏が指摘されていることだが、福王寺法林は左目が見えないにもかかわらず、両眼で見ている画家以上に絵の視野が広く距離感があり、見事な調子を保っている。誰でも片目をつぶってみれば視野が狭く、奥行きが浅くなるから、隻眼であれだけの空間感覚が表現できるとい
うのは、いかに大変なことか想像できるだろう。福王寺法林自身は、片目だからといって他人に負けるのはいやだから、人一倍スケッチをやったというが、あの空間の微妙な感じは、並み大抵の訓練でできることではなかろう。福王寺法林は、6歳の時、父の狩猟についていき、銃口をのぞいた時に暴発した。一命はとりとめたが、左眼は失明した。それでも8歳で画家を志したのだが、入門段階ですでに隻眼というハンディは大きい。しかしこの少年は、天与の才もあるだろうが、不屈の闘志で写生に打ち込んだのである。それによって、絵画に必要な視野の広がり、奥行きを的確に我がものとしたのであろう。そうした気質は、代々上杉藩の槍術師範だったという武家の血筋がもたらしたものかもしれない。福王寺法林自身、80歳を超えたいまでも居合抜きを怠らない。あるいは、隻眼のハンディを克服した距離感や微妙な調子は、画技の訓練だけでなく、武芸者の呼吸や気合い、宮本武蔵の五輪書にいう、近の見と遠の見の間合いに対する絶妙の感覚に通じるのではなかろうか。それは理屈ではなく、全身で感覚を磨いて会得するものであろう。それにかかわる興味深いエピソードも、先の対談で福王寺法林が横山大観の思い出を語ったなかにあった。福王寺法林は晩年の巨匠にかわいがられた。
元旦には神社詣でならぬ大観詣でをして、酒を振る舞われ、いろいろ感化を受けたという。それで院展の初期の頃のこと、岡倉天心のこと、朦朧体のことなどの知識を授かったわけだが、その大観に「刀で相手を斬る時、刃が当たる寸前で止める力がないといけない。芸術もそうで、力にまかせて描くのは、斬るだけのわざと同じだ」とさとされた。当時の福王寺法林は《朝》が奨励賞を受賞、また《かりん》が大観賞を受賞して芽の出かかった頃のはずである。この愛すべき後進に目をかけていた大観が、剣の極意にことよせて、そういう話で絵の心構えを説いたのであろう。弟子はとらなかった大観が、眼鏡にかなった若い作家には、このように、人に応じて道を説いていたことが知れる一例としておもしろいが、福王寺法林はこの“寸止め”の教えを、いまも戒めとして肝に銘じている。福王寺法林は14歳で、画家を目指して上京するが、食うにも事欠いて、貧乏のどん底を経験している。米が買えず、豆腐屋でおからを分けてもらい、湯をかけて味噌を溶かしたものばかり食べて飢えをしのいだ。生活のため映画館や銭湯の看板描きや個人の庭の絵の注文をとるなどしてわずかな稼ぎを得たともいう。それも、福王寺法林の述懐によれば、画家になってヒマラヤを描くんだという執念が支えだったという。執念といえば、召集され、4年半転戦した中国戦線から、生命からがら帰還することができたのも、生きて帰って絵を描きたい一念あってのことだった。片目が失明しているのに甲種合格だったというのは不思議なことだが、福王寺法林は山砲部隊の機関銃射手になる。召集を受けた福王寺法林は、縁者、知己から金を工面して群青や緑青など絵具を買い込み、カメに入れて、山形の家の縁の下に埋めた。桂林で終戦となり部隊は分裂、上等兵だった福王寺法林は、上官だった下士官を含めて8人の兵を引率し、何と重慶から香港まで、数千キロを半年かけて歩き、インド軍に投降するのである。見つかれば生命はまずないから、昼間はかくれ、夜間だけ行動する困難な逃避行の間にも、福王寺法林の気を奮い立たせたのは、縁の下の絵具のことだった。「自殺した方が楽だと思ったことが何度もあったが、その度に、あの絵具で絵を描くのだと思い止まった」のである。