米沢に生還したのが昭和21年9月。結婚し、絵に打ち込んで、昭和25年の第34回院展に《山村風景》が初入選し、それから福王寺法林の本格的な画業が始まる。つまり、福王寺法林は、戦後最も早い時期にデビューした画家の一人ということになる。昭和28年には東京三鷹に移って、次々と注目作を生み出す。例えば昭和30年の《朝》は、その頃の、豊かではない家庭の朝の台所の様子を描いて、優しい情感がこもった、生活感のある作品だし、33年の《麦》は、一面緑の麦畑が、実に入念な、麦の一本々々を観察したスケッチに基づいた丹念な描写で描かれ、繊細な神経が通う。またヒマラヤの作品でも、日本芸術院賞を受けた昭和38年の《ヒマラヤの花》は、しゃくなげの花に抒情味がただようし、平成10年、過去のスケッチをもとに描いた《長崎夜景》も、繊細で、微妙なトーンの佳品である。これらの、優美で、情感細やかな作品が、剛直で男性的なヒマラヤ連作の一方にあることが、福王寺法林の芸術の幅の広さである。作品をふり返ると、初期は繊細、優美な面が出ていて、昭和33年の《北の海》の松の豪快な男っぽさあたりから、強さが表に出てくる。こうみてくると、福王寺法林は、優しく繊細な情感を、男性的な剛直さで包んだ画家ということがいえると思う。とはいえ、リリカルであろうと、豪放であろうと、スケールの大きさが福王寺法林の特徴である。しかも、何を描いても型通りの日本画ではない。
福王寺法林自身、型にはまった絵を嫌う。現代の新しい表現は、ヨーロッパの絵画にも彫刻にも取り入れるべきものは多いとし、院展の若い作家たちにも、いろんな美術に積極的にふれることをすすめている。福王寺法林は、少年の頃、狩野派の上村廣成に、院展では田中青坪に就いたが、画技は、実際はほとんど師に学んだというより独習で開発した。それよりもむしろ、亡くなられるまで25年以上にわたって、今泉篤男氏の薫陶を受けたことが、福王寺法林の芸術にとって大きいのではないかと思う。

復員して米沢にいたころから今泉氏の話を聞き、氏を介して洋画家の岡鹿之助、彫刻家の桜井佑一らと接し、一緒に研究会を持ったりしている。そのことによって日本画の外への美術認識も開けたし、伝統的な技法にもこだわらない。こだわらないというより、いつも、新しい方法を研究している。数多くのヒマラヤの連作は、全部そういう研究の積み重ねであって、金箔など箔の使い方は毎回異なるのだという。ところで、その福王寺法林の画業を、子供の噴から見て育ったのが子息の一彦である。一彦は、父のヒマラヤ取材の全てに同行し、手足となって助けてきた。最初は昭和49年、一彦が東京芸大日本画科の受験に失敗した時だ。それ以降一彦は、ネパールの風物を描くようになる。この時描き始めた、《追母影》が、昭和33年の第63回院展に初入選するのだが、それによって、それまで4回つづけていた芸大受験は意味がなくなった。幼少の頃から父の絵具溶きをやるなどして、技術的な基礎は備わっている。父を師として画家として独り立ちするのだが、しかし、一彦の意地っ張りは父ゆずりである。同じヒマラヤに行き、ヘリコプターに同乗しても、絶対に父と同じものを描かない。父の方もそれを期待しないし、むしろ楽しんでいる。福王寺法林にいわせれば「一彦を美大に行かせようとは思わなかった。学校に行っても型にはまった絵を描くようになるだけでつまらない。絵は結局は自分自身だ」であり、一彦は、たしかに、自分の世界を、周到な計画で作っている。そして、昨年、日本芸術院賞を受賞した。父がこの賞を受賞したのは63歳の時。一彦はそれよりはるかに早い45歳での受賞である。

(かとうさだお・元茨城県近代美術館長)

(福王寺法林・一彦展図録より転載)