復員して米沢にいたころから今泉氏の話を聞き、氏を介して洋画家の岡鹿之助、彫刻家の桜井佑一らと接し、一緒に研究会を持ったりしている。そのことによって日本画の外への美術認識も開けたし、伝統的な技法にもこだわらない。こだわらないというより、いつも、新しい方法を研究している。数多くのヒマラヤの連作は、全部そういう研究の積み重ねであって、金箔など箔の使い方は毎回異なるのだという。ところで、その福王寺法林の画業を、子供の噴から見て育ったのが子息の一彦である。一彦は、父のヒマラヤ取材の全てに同行し、手足となって助けてきた。最初は昭和49年、一彦が東京芸大日本画科の受験に失敗した時だ。それ以降一彦は、ネパールの風物を描くようになる。この時描き始めた、《追母影》が、昭和33年の第63回院展に初入選するのだが、それによって、それまで4回つづけていた芸大受験は意味がなくなった。幼少の頃から父の絵具溶きをやるなどして、技術的な基礎は備わっている。父を師として画家として独り立ちするのだが、しかし、一彦の意地っ張りは父ゆずりである。同じヒマラヤに行き、ヘリコプターに同乗しても、絶対に父と同じものを描かない。父の方もそれを期待しないし、むしろ楽しんでいる。福王寺法林にいわせれば「一彦を美大に行かせようとは思わなかった。学校に行っても型にはまった絵を描くようになるだけでつまらない。絵は結局は自分自身だ」であり、一彦は、たしかに、自分の世界を、周到な計画で作っている。そして、昨年、日本芸術院賞を受賞した。父がこの賞を受賞したのは63歳の時。一彦はそれよりはるかに早い45歳での受賞である。
(かとうさだお・元茨城県近代美術館長)
(福王寺法林・一彦展図録より転載)